SaaSスケールで直面する成長の壁
再現性のある営業組織を構築してスケールを実現するために必要なのは、営業プロセスの標準化・MA/SFAによるデータ基盤の構築・マーケティングと営業の連携体制を並行して整備することです。
日本のSaaS市場は2023年時点で約1.4兆円、2027年には2兆円へ拡大する見込みで、年平均成長率は約9〜10%と言われています。この成長市場において、多くのSaaS企業がシリーズA〜Bのスケールフェーズで「成長の壁」に直面しています。
株式会社インゲージの調査(2024年、営業マネジメント層508名対象)では、営業課題の本質が「情報の属人化・ブラックボックス化」にあると結論づけられています(調査対象は限定的)。創業期に活躍したトップセールスのノウハウが共有されず、人員を増やしても成果が比例して伸びないという課題を抱える企業は少なくありません。
この記事で分かること
- SaaSスケールに必要な成長指標と専門用語の基礎知識
- 営業プロセスを標準化して属人化を解消する具体的な手法
- MA/SFAを活用したデータ基盤の構築方法
- マーケティングと営業の連携体制を整備するポイント
- 自社のスケール準備状況を診断できるチェックリスト
SaaSスケールの基本概念と成長指標
SaaSスケールとは、事業や組織を拡大可能な状態にして成長を加速させることを指します。単なる人員増ではなく、再現性のあるプロセスとデータ基盤を整備して、効率的に売上を拡大できる体制を構築することが本質です。
SaaS企業の成長と評価を語る上で、いくつかの重要な指標と専門用語を押さえておく必要があります。
T2D3とは、SaaSの高速成長モデルです。ARR(年間経常収益)を3年連続で3倍(Triple)、その後2年連続で2倍(Double)にする成長パターンを意味します。グローバルなSaaS企業ではこのモデルが成長のベンチマークとして参照されることが多いですが、日本のSaaS企業はグローバルと比較すると成長スピードがやや遅い傾向があると言われています。
PSR(Price to Sales Ratio) は、株価売上高倍率と呼ばれる指標です。時価総額を年間売上高で割って算出され、SaaS企業の評価指標として広く使われています。上場SaaS全体のPSR中央値は2025年11月末時点で約3.8倍であり、売上成長率と利益率のバランスが良い企業ほど高い評価を受ける傾向があります。
40%ルールは、SaaS企業の健全性を測る指標です。売上成長率と営業利益率の合計が40%以上であることが理想とされており、成長と収益性のバランスを判断する際に参照されます。
NRR(Net Revenue Retention) は、既存顧客からの売上維持率を示す指標です。解約やダウングレードによる減少と、アップセル・クロスセルによる増加を加味して算出されます。NRRが100%を超えていれば、既存顧客だけで売上が成長していることを意味します。
スケールフェーズの定義と成長段階
SaaS企業の成長は一般的に、シード期、シリーズA、シリーズB、それ以降のステージに分けられます。スケールフェーズは主にシリーズA〜Bの段階を指し、プロダクトマーケットフィット(PMF)を達成した後、事業を本格的に拡大する時期に相当します。
このフェーズでは、創業期とは異なる課題が生じます。創業期は少数精鋭のチームで動けばよかったものが、人員が増えるにつれてコミュニケーションコストが増大し、暗黙知の共有が困難になります。
人員拡大とプロセス整備は密接に関係しています。10名規模であれば阿吽の呼吸で進められた業務も、50名、100名と拡大するにつれて、明文化されたプロセスがなければ組織は機能しなくなります。スケールフェーズでは、人を増やす前に「増やしても機能する仕組み」を整備することが重要です。
営業プロセスの標準化で属人化を解消する
営業プロセスの標準化は、SaaSスケールにおける最も重要な要素の一つです。ここで明確に否定すべきなのが、「優秀な営業担当者の属人的なスキルに依存したまま人員を増やす」というアプローチです。このやり方では、採用した人材が既存のトップセールスと同じ成果を出せる保証がなく、人件費だけが増加して生産性が低下するリスクがあります。
セールスイネーブルメントとは、営業の生産性を体系的に高める仕組みを指します。トレーニング、コンテンツ、ツールなどを統合的に提供し、営業担当者が最大限のパフォーマンスを発揮できる環境を整備する取り組みです。
ALL STAR SAAS FUNDのレポートによると、SaaS高成長企業の人員配分はセールス55%、ポストセールス(CS・サクセス)23%という比率が示されています。セールス人員を増やすことは成長に不可欠ですが、その前提として、増員した人材が成果を出せる仕組みが整っていなければなりません。
属人化を解消するためには、トップセールスの暗黙知を形式知化することが出発点となります。なぜその営業担当者は成果を出せるのか、どのような行動パターンや話し方をしているのかを分析し、他のメンバーが再現できる形に落とし込むことが重要です。
プレイブックとトークスクリプトの整備
営業プロセス標準化の具体的な手法として、プレイブックとトークスクリプトの整備が挙げられます。
プレイブックとは、営業活動における標準的な進め方をまとめたガイドラインです。リードの獲得からクロージングまでの各フェーズで、何をすべきか、どのような資料を使うか、どのタイミングで上司にエスカレーションするかなどを明文化します。
プレイブック作成のポイントは以下の通りです。
- トップセールスの商談録音を分析し、成功パターンを抽出する
- 顧客の業種・規模・課題別にアプローチ方法を分類する
- 各フェーズの完了基準(Exit Criteria)を明確にする
- よくある反論とその対応方法をリスト化する
トークスクリプトは、プレイブックの中でも特に会話の流れを具体化したものです。初回面談、デモ、価格交渉など、シーン別に「何を、どの順番で、どのように話すか」を整理します。ただし、スクリプトを棒読みするのではなく、要点を押さえた上で自然な会話ができるようトレーニングすることが重要です。
これらのナレッジを組織で共有可能にするためには、ドキュメント化だけでなく、定期的なロールプレイング研修や、SFA上での活動記録の標準化も併せて実施することが効果的です。
MA/SFAによるスケール可能なデータ基盤の構築
スケールの第二の要素は、MA(マーケティングオートメーション)とSFA(営業支援システム)によるデータ基盤の構築です。属人化した営業組織では、顧客情報や商談状況が個人のメモや記憶に依存しがちですが、これではスケールに限界があります。
総務省調査(2020年)によると、大企業の約9割、中小企業の5割超が顧客データ・アクセスログ等を「経営企画」「製品開発」「マーケティング」で活用しています。データ活用は大企業を中心に進んでいますが、SaaS企業においては企業規模を問わず、早期からデータ基盤を整備することがスケールの前提条件となります。
国内BIツール市場は2024年度7,830億円、2025年度8,960億円規模に拡大予測で、前年比約14〜15%の成長率を示しています。この市場拡大は、データに基づく意思決定への需要の高まりを反映しています。
MA/SFA連携によるデータ基盤構築のポイントは、リード情報と商談情報の一元管理です。MAで獲得したリードがどのような経路で流入し、どの程度のスコアを持ち、営業に渡った後どのような商談状況にあるのかを、一気通貫で追跡できる状態を目指します。
データ基盤整備の具体的なステップは以下の通りです。
- リードの流入経路・属性情報をMAで一元管理する
- リードスコアリングのルールを定義し、営業への引き渡し基準を明確化する
- SFAで商談のステージ管理を標準化する
- MAとSFAを連携させ、リードから受注までのファネルを可視化する
マーケティングと営業の連携体制
スケールの第三の要素は、マーケティングと営業の連携体制です。多くの企業で「マーケが獲得したリードが営業に活用されない」「営業がリードの質に不満を持っている」といった部門間の溝が存在します。この溝を埋めることが、スケールに向けた重要な課題です。
連携体制構築の要となるのが、MQL(Marketing Qualified Lead)とSQL(Sales Qualified Lead)の定義です。MQLとは、マーケティング施策で獲得したリードのうち、将来的に顧客になる可能性が高いとマーケティング部門が判定したリードを指します。SQLとは、営業部門が商談化可能と判断したリードです。
MQLからSQLへの引き渡し基準を両部門で合意し、SLA(サービスレベルアグリーメント)として明文化することが重要です。例えば、「MQL認定後24時間以内に営業が初回コンタクトを取る」「営業は2週間以内にSQL判定を行い、結果をMAにフィードバックする」といったルールを設定します。
リード獲得から商談創出までの再現性ある仕組みを構築するためには、以下の点に留意する必要があります。
- マーケティングと営業の定例ミーティングを設置し、リードの質と量についてフィードバックを交換する
- リードスコアリングのロジックを定期的に見直し、実際の商談化率と照合する
- 受注・失注の理由を分析し、マーケティング施策の改善に活用する
SaaS営業スケール準備チェックリストと組織整備フロー
自社のスケール準備状況を診断するためのチェックリストを用意しました。各項目を確認し、未整備の領域から優先的に取り組むことをお勧めします。
【チェックリスト】SaaS営業スケール準備チェックリスト
- 営業プロセスが文書化されている
- トップセールスの成功パターンが分析・共有されている
- 営業向けプレイブックが整備されている
- トークスクリプトがシーン別に用意されている
- 新人営業向けのオンボーディングプログラムがある
- SFAが導入・運用されている
- 商談のステージ定義が明確で全員が理解している
- 商談データが正確にSFAに入力されている
- MAが導入・運用されている
- リードスコアリングのルールが定義されている
- MAとSFAが連携している
- MQLの定義が明文化されている
- SQLの定義が明文化されている
- MQL→SQL引き渡しのSLAが設定されている
- マーケティングと営業の定例ミーティングがある
- リードの質に関するフィードバックループが機能している
- 受注・失注理由の分析が定期的に行われている
- 営業KPIがダッシュボードで可視化されている
- 営業活動のボトルネックが特定できている
- スケール後の組織体制が設計されている
組織・ツール整備のフローを以下に示します。スケールフェーズに向けて、どの順序で何を整備すべきかの参考としてください。
【フロー図】SaaSスケールフェーズ別の組織・ツール整備フロー
flowchart TD
A[Phase 1: 基盤整備] --> B[Phase 2: プロセス標準化]
B --> C[Phase 3: ツール連携]
C --> D[Phase 4: スケール実行]
A --> A1[SFA導入・運用開始]
A --> A2[商談ステージ定義]
A --> A3[基本KPI設定]
B --> B1[トップセールス分析]
B --> B2[プレイブック作成]
B --> B3[トークスクリプト整備]
B --> B4[オンボーディング設計]
C --> C1[MA導入・設定]
C --> C2[スコアリングルール定義]
C --> C3[MA-SFA連携]
C --> C4[MQL/SQL定義・SLA設定]
D --> D1[営業人員採用]
D --> D2[オンボーディング実施]
D --> D3[PDCAサイクル運用]
D --> D4[継続的改善]
SaaSスケール成功の鍵は仕組みの整備にある
本記事では、SaaS企業がスケールフェーズで直面する課題と、その解決に向けた具体的なアプローチを解説しました。
日本のSaaS市場は2023年時点で約1.4兆円、2027年には2兆円に拡大する見込みです。この成長市場で競争優位を築くためには、早期に再現性のある営業組織を構築することが重要です。
改めて強調すべきは、「優秀な営業を増やせばスケールできる」という考え方の誤りです。トップセールスの属人的なスキルに依存したまま人員を増やしても、成果は比例して伸びません。
スケールを成功させるためには、次のステップから始めることをお勧めします。まず、現在のトップセールスの行動パターンや話し方を分析し、プレイブックとして形式知化してください。並行して、SFAでの商談管理を標準化し、データに基づく営業マネジメントの基盤を整えます。その上で、MA導入とマーケティング・営業連携の仕組みを構築していきます。
SaaS企業のスケールには、営業プロセスの標準化・MA/SFAによるデータ基盤の構築・マーケティングと営業の連携体制を並行して整備することが重要です。これら3つの要素を整えることで、属人化を解消し、再現性のある成長を実現できます。
